2025.11.23(日) 徳島県吉野川市鴨島町敷地字宮の北426他
徳島県指定史跡(昭和40年3月5日)
古代寺院。江戸時代の記録にみられたが、場所などははっきりとしていなかった。昭和29(1954)年に田の耕作中に、大形の石や瓦が出土したことから、記録にある河辺寺と考えられるようになった。
2005(平成17)年の徳島県埋蔵文化財センターの調査では、これまで知られていた礎石17カ所の他に,礎石を取り除いた穴10カ所と東西の基壇を確認した。この調査結果から、この礎石建物が4間×5間の規模の金堂と分かった。
建物の周囲からは、瓦が大量に出土した。出土した瓦の文様の特徴などから、寺が奈良時代(8世紀)に建てられたことも分かった。
徳島県の古代寺院は遺構の配置などはっきり分かっていないものが多く、建物の規模などが分かるものとして貴重な調査例である。
徳島県立埋蔵文化財総合センターHPより抜粋

現地には河辺寺跡を説明する案内板が2枚


出土した鬼瓦は9月(あわぎんホール・タイトル画像)及び11月(レキシルとくしま)での「掘ったでよ阿波」展で見ることができました

愛媛出身、鎌倉時代中期の僧侶で時宗の開祖、一遍上人が行脚の途中、1289年6月1日 阿波の国の「大鳥の里河辺」で病のため1ヶ月ほど留まったという記述が『一遍聖絵』の中にあるとのこと。
この「大鳥の里河辺」が河辺寺を指すのでは?という推測もあるようです。
一遍上人と言えばこの言葉がよく知られています
「生ずるは独り、死するも独り、共に住するといえど独り、さすれば、共にはつるなき故なり」
「人とは孤独なもの それを受け入れよ」
受け入れたうえでどうするか?
解釈はひとそれぞれだろうけれど、今は遺構のみが残るこの地で当時1ヶ月、療養しながら何を思っただろうとか、13世紀頃のみならず、そのずっと前からこの地で暮らしてきた動物や人がいて今がある
この先にはどう受け継がれて行くだろうか?
などと、きれいに草が刈られた一見ただの畑に見えるこの地でロマンを感じたひとときでした

